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日本のハンセン病問題 - AdWiki - Twoja encyklopedia


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    日本のハンセン病問題

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    日本のハンセン病問題は、ハンセン病に関する日本の歴史問題と現状の問題点について記載する。またハンセン病患者、入所者の解りにくい面についても解説を試みる。

    目次

    [編集] 日本における政策と事件の歴史

    [編集] 近代以前の歴史

    中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れと考えられており、発症した者は非人であるという不文律があった。鎌倉時代の文献によると、患者と家族が相談し、相当の金品を添えて非人宿にひきとられ、非人長吏の統率下におかれた、とある[1]。これにより、都市では重病者が悲田院北山十八間戸極楽寺などに収容された例もある。江戸時代にはこの病になると家族が患者を四国八十八ヶ所熊本加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせた。このためこれらの場所に患者が多く物乞をして定住することになった[2]。旅費が無い場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落を成して勧進などで生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。横浜の乞食谷戸(こじきやと)はその一例である。患者が漁にでるとマグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、漁業に携わる者もいた。

    昭和時代に入ると、患者への偏見はエスカレートしていくことになる。

    • 1930年代(昭和5年以降)に、無癩県運動が始まった。これは、患者を摘発し強制収容させて県内から癩を無くそうというもので、その強引な患者の摘発は患者本人だけでなく家族の人権まで侵すほどのものであった。鳥取県では知事を会長とする鳥取県癩予防協会を結成し、県民から寄付を集めて長島愛生園に県出身者用の寮を建設し、患者を送致した。この運動は全国に拡大し、福岡県・山口県・宮城県・富山県・岡山県・埼玉県・愛知県・三重県などの県が積極的だった。最近では、この運動は光田健輔により主導されたという説がある[3]。開始時期は確定しないが、山口県議会の議事録によると、昭和5年に開始されたと考えて良いと思われる。
    • 1931年(昭和6年)、貞明皇后からの下賜金により、渋沢栄一を会長とする「癩予防協会」が発足。また、貞明皇后の誕生日、6月25日を中心に癩予防デーを設定し、ハンセン病患者を日本から根絶する呼びかけを行って、全国的な無癩県運動を推進した。なお、この癩予防デーは、1964年からは、この日を含む1週間を「ハンセン病を正しく理解する週間」として、差別や偏見のない社会を推進する目的に変わっている。
    • 1949年には、厚生省の発令で第2次無癩県運動が起こり、それに関連して多数の事件も起きている。
    • 無癩県運動の高まりにより、強制収容者が増加。各療養所は定員オーバーとなり、食料事情などの環境は劣悪になっていった。1936年(昭和11年)には、光田健輔が所長を務める岡山県の長島愛生園で暴動が勃発した(長島事件)。光田健輔は50名を暴動の首謀者に仕立て上げた。
    • 1940年(昭和15年)、熊本市本妙寺周辺の患者集落を、警官や療養所の職員が襲撃し、患者157人を検挙する事件が起こり、重症患者以外は他療養所に移送された(本妙寺事件)。

    潮谷総一郎の「本妙寺癩窟」によると患者の多くは相愛更正会という秘密結社に入っていた[4]。毎年5円を出して、寄付金の趣意書、奉加帳を交付して貰い、定められた自分の縄張りに年2回出張して寄付を募った。また、厚生省、県知事、学務課、社会課の証明書、本妙寺の住職の感謝状を偽造した。そして北海道から台湾朝鮮に至るまで、2名一組で寄付を強要する、やらないと、「伝染させるぞ」と居直る。人々は癩の恐怖と、いかめしい厚生省や、県知事等の証明書にたいして、金銭を出したのであった。本妙寺事件の一部はその解決のためであった。また、本妙寺と九州療養所や星塚敬愛園などの長い腐れ縁を絶つためでもあったろう。近づいてきた戦争の影の影響と考えた人もいた。

    • 1951年(昭和26年)に発生した藤本事件では、爆破・殺人事件の犯人として逮捕された藤本松夫がハンセン病に罹患していたため公正な裁判を受けられず、1962年(昭和37年)冤罪の疑いが濃厚なままで死刑に処された。

      詳細は藤本事件を参照

    • 1951年(昭和26年)に山梨県において癩家族一家九人心中事件が起こった。それ以外にも1950年(昭和25年)には熊本、1983年(昭和58年)には香川の各県で一家心中(含む未遂)事件など、多数の悲劇的な事件を生んだ。収容人数は1958年(昭和33年)に最高に達し、その後は減少に転じた。

    [編集] 近代のハンセン病政策

    [編集] 太平洋戦争前

    1897年ベルリンで第1回ハンセン病国際会議が開かれ、「ハンセン病は感染症だから隔離する」と決められたが、その隔離については病状に応じて行う相対的隔離を原則としていた。らい患者がいることへの外国人からの苦情、日清戦争、日露戦争により軍国主義化していた政府は徴兵検査におけるらいの増加に苦慮していたこと、たまたま、経済的危機におちいったハンナ・リデルを救うために明治38年銀行会館で会議を開いたことなどが、政府がハンセン病治療の法律を作る機運を高めた。1907年(明治40年)に「癩予防ニ関スル法律(癩予防法)」がはじめて制定された。この法律の下、全国に5ヶ所の癩療養所を設けた。当時の設置・運営は道府県の連合により行われており、公立療養所であった。第1区(東京府 全生病院)・第2区(青森県 北部保養院)・第3区(大阪府 外島保養院)・第4区(香川県 大島療養所)・第5区(熊本県 九州療養所)の5箇所である。その療養所の所長は、現在のように医師ではなく、警察官上がりの官僚がほとんどであった。例外的に、九州各県連合立の第5区九州癩療養所(2年後に癩を省く)では、1909年に医師である河村正之が初代所長に就任した。彼は医師の立場から、日本型絶対隔離政策が推進されていくことに危惧し、積極的に隔離政策に反対し、治癒後は積極的に社会復帰させるべきだ、と主張を繰り返していた人物である。暫くして他の療養所所長も医師が就任した。当時の日本の法律は、放浪患者の救済・取り締まりの意味合いが強く、家庭が裕福であると帰したり有料にしたりした。1916年、療養所から患者の逃走が増加したため、法改正を行い懲戒検束規定が設けられた(懲戒検束権については別項参照)。1931年(昭和6年)、光田健輔の尽力により2度目の改正が行われ、隔離の対象が浮浪者のみであったのを自宅療養している人にも対象を広げることになった。すなわち、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策(強制隔離政策)が主目的であった。また、この頃より国立療養所が次々に作られた。最初に作られた国立療養所は、岡山県の長島愛生園である。また、1941年には、今まであった公立療養所を国立に移管した。こうして、私立療養所を除いて、国が一括して管理する体制が作られ、患者の収容が一層、強化されることになった。1941年(昭和16年)、京都大学皮膚科特別研究室主任の小笠原登が、強制隔離政策反対の意見を日本らい学会で発表したところ糾弾される事件も起きた。戦前から戦後にかけて、東北大学、東京大学、京都大学、大阪大学、九州大学の皮膚科において、ハンセン病の外来診察治療を行っていた。当時存在した別の大学の皮膚科においても、外来治療したという記載もある。制度外であったので、いろいろ苦労苦心があった。また民間には、良心的でない、怪しい治療をおこなう所もあった。

    [編集] 患者懲戒検束権

    1914年(大正3年)、光田健輔が公立癩療養所全生病院院長に就任し、患者懲戒検束権といって、各施設内に監房を作り所長の一存で患者を投獄できるようにした。1938年には、群馬県栗生楽泉園に特別病室という名の牢獄が設置された。全国から懲罰を受けるために患者が送られた。冬季にはマイナス20度という環境になり、また減食という厳罰が行われたりするなど、過酷な条件のため多数の死亡者が続出した。この特別病室は、戦後、共産党の調査団により明らかになった。その一方、ハンセン病患者が犯罪を犯した場合には刑務所に入らずに療養所に収容されるのみで刑を免れることが可能であったが、これは公民としての権利がなかったことを意味する。法務省もハンセン病患者を避けるために、なかなか刑務所を設置する方向には行かなかったが、1950年、栗生楽泉園内で入所者同士の争いによる殺人事件が勃発したのをきっかけに刑務所設地への意見が高まった。そしてついに1953年、熊本県の菊池恵楓園に隣接して熊本刑務所菊池医療刑務支所が設置された。この際には必要最小限の条件をもとに患者懲戒検束権が認められた。

    [編集] 断種・優生政策

    光田健輔は、1915年にはじめて、入所患者の結婚の条件として男性に断種、女性には中絶、堕胎の強要を行った。これは日本における優生政策の一環として行われたものである。1940年国民優生法1948年優生保護法が成立。後者において、ハンセン病は遺伝疾患でないにもかかわらず適用疾患と記載され、人工妊娠中絶が行われた。なお、違法な強制人工妊娠中絶が横行し、患者が出産した新生児を職員が殺害したとする証言から次々に実態が明らかになりつつある。しかし、依然として謎の部分も多い。このときの胎児や新生児の遺体とみられる標本が全国に115体保存されていることが厚生労働省により設置された第三者機関、「ハンセン病問題検証会議」によって2005年1月27日報告され、検証作業が提議されている。なお、1997年の法改正により、法律名が母体保護法となり、ハンセン病は適応疾患から除外された。

    [編集] 太平洋戦争後

    戦後昭和22年12月旧警察法(昭和22年法律第196号)により、国が行う療養所以外のハンセン病行政は県に移行した。国の警察が自治体警察に移ったからである。昭和25年の患者届出では、県知事宛のものがある。その後、1953年昭和28年)に、癩予防法から「らい予防法」に改定された。(「癩」は当用漢字に制定されていないため、平仮名表記となった。)しかし、それは従来の癩予防法による強制隔離政策を踏襲するものであり、療養所の入所者に対する待遇は全く変わらなかった。この時から、届け出は警察署長宛てから、県知事宛てに代わった。入所前、および退所後の患者の世話、入所後の家族の世話などは、県の係官が極秘のうちに行った。医療に関することは、県が指定する「らい指定医」と協力して行った。県単位で、出身地を回る旅行(ふるさと訪問事業)なども県が主催した。裁判後、国は入所者に陳謝したが、県知事も療養所に陳謝に行った県があったが、上述の理由による。

    世界的には、1956年にローマ宣言が採択され、らい患者の救済と社会復帰の推進がうたわれたり、1958年には東京で開かれた第7回国際らい学会で強制隔離政策をとる政策を全面的に破棄するよう批判されたが、国は全く聞き入れようとしなかった。「らい予防法」に対する抗議のため、菊池恵楓園の患者が作業放棄闘争を起こした。各園でも次々に、作業放棄を行う事件が起こった。これは従来、療養所が行うべき作業(介護、看護、配食、洗濯、消毒、営繕、火葬、糞尿処理、理髪、その他)を入所者に行わせていたので、それを返上しようということである。軽症者が重症者を介護することは当初は全部の療養所で行われていたし、また、作業などで、傷の悪化をきたすこともあった。政府は職員を徐々に増加させ、特に看護の仕事は看護婦にさせるように努力した。一方、琉球政府は1961年「ハンセン氏病予防法」を公布し、外来医療・在宅医療を推進する政策がとられていた(本土復帰後も継続して実施された)。

    [編集] 現代の状況

    「らい予防法」は1996年(平成8年)4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」によってようやく廃止された。一般の病院診療所健康保険で治療できるようになった。

    近年は、ハンセン病に対する理解とハンセン病患者に対する国民の意識が変わり、ハンセン病患者やその家族に対する差別は緩和されてきた。しかしその一方で、ハンセン病元患者のホテルへの宿泊を拒否するなどの事件が、その後も度々起きており差別が完全になくなったわけではない。

    • 元患者が金沢市内のホテルで宿泊を断られた報道があり、石川県2001年7月5日付けで、「ハンセン病は『伝染性の疾病』には該当しません」という内容の通達を出したことがある。
    • 2003年11月、療養所入所者のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルへの宿泊が拒否された問題(ハンセン病元患者宿泊拒否事件)に対しても、療養所やホテルを所轄する厚生労働省は、「ハンセン病について旅館業法第5条第1号及び公衆浴場法第4条にいう『伝染性の疾病』には該当しません」と明記した通達を出した。
    • 第二次小泉改造内閣の法相・南野知惠子は2005年1月11日の閣議後会見で島根県平田市(現在 出雲市)で前日に開かれた島根県議の新年会でハンセン病について言及した際、旧病名の「らい」との表現を繰り返したことを明らかにし、「差別や偏見のつもりはなく、看護(職)の経験から、つい長年使っていた言葉が出た。本当に申し訳ない」と謝罪した。
    • やむを得ず、自分、家族や社会の事情で療養所生活を選んだ入所者は療養所内で、療養、趣味、社会交流などの日々を過ごしている。勿論外出、旅行、海外旅行も自由である。それらの事情は、園が発行している雑誌や、ホームページなどで知ることができる。また、療養所などの見学には、各園の福祉課、福祉室などが相談にのる。

    [編集] 差別に関するトピックス

    スティグマ
    スティグマは社会学用語である。スティグマは、もともとはギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であることを示す焼き印・肉体上の「しるし」のことで、汚れた者・忌むべき者というマイナスイメージが肉体上に烙印されたものである。のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人=カリスマにあらわれるということから、「聖痕」の意味に転化した。このような由来をもつため西欧では日常語として使われている。とくに学術用語としてはアーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman)が使った。スティグマとなりうる属性としては、病気・障害・老齢などの肉体的特徴、精神異常・投獄・麻薬常用・アル中・同性愛・失業・自殺企図・過激な政治運動などから推測される性格的特徴、人種・民族・宗教に関わる集団的特徴などがある。勿論ハンセン病患者もこれに該当する。人びとは、スティグマのある人を対等にあつかわず差別し、多くは深い考えもなしにその人のライフチャンスをせばめている。大谷藤郎の「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難」で知られるようになったが、古くは鶴崎澄則が記載している[5]。ハンセン病の文献としてはジョップリングがLeprosy stigmaの題で[6] 詳しく書いている。
    差別の習慣
    ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)といいウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂りいい知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る[7]

    [編集] ハンセン病に関するその他の歴史事項

    [編集] 明治時代における救済

    明治時代前期には、日本の医師によりハンセン病病院が開設された。後藤昌文起廃病院を明治4年11月(1871年12月)に創設し、その後、子後藤昌直も活躍した[8]。後藤父子は無料の治療も行っていたことは特筆すべき事項である。後藤昌直はハワイのカメハメハ大王に招聘され2回渡航し、ハワイのハンセン病患者の治療を行い、ハワイエイズハンセン病守護聖人であるダミアン神父の治療を行った。遠山道栄は1874年,岐阜県土岐郡土岐町に「回天病院」を創設した。佐久間温巳:夏炉冬扇、平成9年。山口順子は当時の政府が把握しているハンセン病病院を記録している。これ等の病院は、日本政府が法律によるハンセン病行政が開始されるとほとんど廃業した[9]

    明治時代中期には外国宣教師などによる救済が行われた。

    [編集] 湯ノ沢部落

    湯ノ沢地区は草津温泉の東のはずれに位置し、湯川に沿って谷間の狭い沢地。草津温泉は明治2年の草津大火で中心街の殆どが消失。復興のための宣伝にハンセン病にも効くと記され全国から患者が集まってきた。温泉が繁盛するにつれ、患者との混浴が嫌われ、村側は分離を求めた。村側は湯ノ沢地区を移転地ときめ、患者側に承服させた。患者側は自由療養村を目指し自治村を作った。明治20年は4戸であったが一時は1000名を越えた。栗生楽泉園が開かれ、湯ノ沢部落は昭和17年5月解散した。

    [編集] 戦争時の状況

    [編集] 太平洋戦争と朝鮮戦争

    最初に、ハンセン病の発病と太平洋戦争の関係について、終戦直後に書かれた2つの論文を中心に述べる。宮崎松記と高島重孝は昭和23年初頭「レプラ」誌上に、別々に「戦争と癩」と題して注目すべき論文を書いた。宮崎は戦争前より軍人と癩について研究し、癩を結核と同様、軍務起因性の認定に導いた。即ち癩を発病した軍人は恩給法上、結核を発病した場合と同じ取り扱いをうけるようになった。また、軍人専門の療養所の必要性を訴え、傷痍軍人駿河療養所(現、国立駿河療養所)が設置された。宮崎は菊池恵楓園に入所した軍人をについて、発病にどういうストレスが作用したかを研究し(一部を挙げれば146例中、過労50例、アメーバ赤痢12例、寒冷11例、不明40例)、特に入営6か月以内が発症が多いと述べ、感染症でもストレスが影響したと主張した。高島は、今次戦争における動員数は、陸海共7,093,223名で、入所した軍人癩患者数は732名である。その動員数に対する千分比は0.13である、と公式発表数を引用した。入所しなかった者、他の病名で除隊になったもの、調査もれも考えられ、毎年平均100名発生と推定するのが妥当であるとしたが、これは平時より多い数である。高島はまた、将校が兵より極端に少ない(わずか3名)ことを力説した。また高島は軍人癩の出生地を詳しく検討し、在宅患者数の多い所に軍人癩の発生が多いと述べ、感染したのは幼児期であることを示唆した[10]。韓国動乱後にも、韓国においてハンセン病患者が増加したといわれる。

    旧日本軍によるハンセン病患者虐殺
    1943年7月9日頃、当時日本の占領下であった南太平洋の環礁ナウルで、駐屯中の日本海軍第六七警備隊が現地のハンセン病患者39人をボートで海上に連れ出し、砲撃や銃撃を加えた虐殺行為があった。隔離中の患者が米軍の空襲で逃げ出すのを恐れて、警備隊の副隊長が下した命令にそって部下が行った。事件に関与し戦争を生き延びた兵士は、戦後訴追され終身刑が下された。

    [編集] 宮古南静園、沖縄愛楽園と小鹿島更生園の終戦

    戦争の影響が大きかった宮古南静園、沖縄愛楽園と小鹿島更生園の終戦について述べる。

    宮古南静園
    変色して黄色くなった死亡者リストに昭和20年には110名の記載がある。直接爆撃死は1名であるが、負傷して死亡した数名がおり、また死亡原因としては、マラリアが多いが、腎臓疾患もあり、栄養不良の影響も大きい。「戦争を乗り越えて」、「沖縄県ハンセン病証言集」、「50周年記念誌」などに記録がある。園から見える断崖に機銃を備えるための穴が見える。昭和20年3月の空襲で、徹底的に破壊され、園には住めなくなり、「ぬすどがま」その他に入園者は四散した。職員も園を去ったが、当時の園長の前の上司は韓国で惨殺されている。入所者が終戦を知ったのは昭和20年9月であった。
    沖縄愛楽園
    多くの資料がある。近くに特攻隊基地があり、徹底的に攻撃され、白兵戦もあったという。レパーコロニイと判ると、陸からも空からも攻撃は止んだ[11]。米軍も気にしているとみえて、戦後何度も視察・見舞いに訪れ、写真も多数残されている。その中には「ほほえむ松葉杖の美少女」「戦争で受けた熱傷」「ハンセン病の症状」「廃墟」「診察する医師」「戸外で解剖する園長」などの写真もある。沖縄県立公文書館にて所定の手続きをへて、見ることができる[12]
    小鹿島更生園
    終戦時、食料が粗悪になり、脱出する入所者もいた。8月18日に西亀三圭園長は職員に終戦の訓示をした。約300人の朝鮮人職員は自らの手で経営する主張をした。19日に受刑者70名が脱獄し朝鮮人職員を襲撃した。朝鮮人職員が、対岸に救いを求めたのではせつけた武装した朝鮮人は発砲、犠牲者は数十名に上がった。22日に日本軍が出動した。日本人職員は公会堂に集結し、軍と行動を共にし、麗水に出て引き上げた。滝尾英二.[13]

    [編集] 戦後の韓国の状況

    韓国のハンセン病療養所、患者は、戦後日本と全く違う道を辿った。ここでは、日本と比較するために、その歴史の年表と定着村運動について簡単に記す[14][15]

    [編集] ハンセン病に関する韓国の戦後の年表

    • 1945年:ソロク島に患者8000名収容されていた。物乞いの患者街に溢れる。
    • 1947年:モーバイルクリニック(車による診療)柳により開始さる。韓国らい協会、柳のリーダーシップで作られる。柳博士、希望村運動開始。プロミン導入。
    • 1953年:DDS(治療薬)導入。
    • 1955年:柳が外来治療開始。
    • 1958年:Korean Society of Leprologists 柳が創立。
    • 1959年:柳が研究所を創立。
    • 1961年:らいコントロール5年計画(柳)。全国調査(柳)。中央政府の支援を得て現在の定着村へ発展(柳)。
    • 1962年:WHOの参加
    • 1963年:啓発雑誌 ”Vision”発刊
    • 1964年:強制隔離法の廃止
    • 1969年:ハンセン協会創立(患者の協会)
    • 1982年:MDT(多剤併用療法)開始

    [編集] 韓国ハンセン病界の戦後の歴史

    戦後5000名ものらい患者の浮浪者が街中に溢れた。浮浪者のグループはボスにより纏められていたが、柳が説得し、1947年に21のグループのボスより物乞い以外のことをしようと希望村運動(Hope village movement)が始まった。「希望を持つべきだ」「秩序をもつべきだ」「自助努力をしよう」とコロニーを造った。1950年の朝鮮戦争以前に16の希望村が出来たが、その運営は農業、養鶏業、ベンチュアー企業など、患者自身があたった。その後1961年に、中央政府の支援を得て、現在の定着村事業が開始された。1993年にはその数は102を数える。柳は精神的、肉体的、社会ー経済的なリハビリテーションの重要性を強調している。また、この自分で行うこの精神的運動が社会的なスティグマを減らしている。

    [編集] ハンセン病補償法訴訟

    詳細はらい予防法違憲国家賠償訴訟を参照

    1998年国立ハンセン病療養所(星塚敬愛園・菊池恵楓園)の入所者13名(平均年齢は当時71歳)が国を相手取り「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を熊本地裁に提訴した。2001年(平成13年)5月11日、熊本地裁は国の隔離政策の継続は違憲であると判断した。5月23日、当時の首相である小泉純一郎は控訴することを断念した。これを受けて、国はこれまでのハンセン病政策に対して責任を認めて謝罪した。6月22日にハンセン病補償法(「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」)が成立し、裁判に参加した元患者らには800万〜1400万円の賠償金(補償金)が支払われた。なお、裁判に参加しなかった元患者らには同額の補償金が支払われた。なお、戦前まで日本の植民地であった韓国と台湾に建てられ、同様に運営がなされていた二つの施設(韓国小鹿島(ソロクト)更生園―現・国立小鹿島病院、台湾楽生院―現・楽生療養院)については補償対象外となっていたため、その後も裁判が続いた。

    [編集] 日本の療養所

    [編集] 現状

    現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所と全国2か所の私立ハンセン病療養所(神山復生病院待労院診療所)に約3,100人(3,079人・2006年5月1日現在)が入所している。ほとんどがすでに治癒している元患者である。平均年齢77.5歳(80歳以上の高齢者が全体の38%、70歳以上が80%)である。さらに寝たきり者は全国平均で7.1%、認知症は9.0%、年間の死亡者数は全国で200〜250人である。高齢と病気の後遺症による障害、さらにかつて強制的に行われた断種手術、堕胎手術のために子供がいない元患者が多いことから、介護を必要として療養所に入所しているのが実情である。また、社会復帰するための支援を行っているが、実際に社会復帰できた例は少ない。

    現在の療養所に於いては、一部を除いて医師の定員さえ確保されておらず、医療機器の整備も十分でないため、療養所内でできるハンセン病の医療や一般的な疾患以外の医療は、外部の医療機関(病院)に委託診療を行うことがある。外部の医師を呼ぶ場合と、外部の病院の外来に入所者を送る場合があるが、後者の場合は通常、療養所の福祉係または看護師が同行する。他に入所者が外部の病院に入院することもある。年々入所者の数は減る一方であり、入所者にとっては死ぬまで退所・転園することなく最後まで国に面倒をみてほしいという希望がある。政府は、法的責任を踏まえた上で最後まで面倒をみると保障している。各療養所には、納骨堂(のうこつどう)と呼ばれる重要な施設がある。家族に引き取られなかったお骨を納める場所となっている。水子の霊を弔う碑がある療養所もある。

    [編集] 日本の療養所の特色

    日本中にハンセン病療養所は13箇所あるが、各々独自の歴史、自治会、環境、県民性その他色々な条件のために、その雰囲気は各々異なる。時には大きな問題の取り扱いについて、入所者の意見の集約ができにくい、ということもあった。「らい予防法」廃止前のような時などである[16]。入所者は自由に他の療養所に移動してもよいが、それは勿論、相手の療養所が認めた場合である。特に初回入所の時は、知った人々に会いたくないという理由で自由に療養所を選んでいた。例えば、菊池恵楓園には、色々な県から入所される一方、熊本県の人が他の県の療養所に入るといったこともある。(平成元年の統計で、恵楓園の入所者の本籍地は熊本315名、他は九州沖縄が多いものの、韓国43名、朝鮮8名、九州より北の都道府県からは111名である。合計1042名)[17] 石垣島の人が、近くの宮古南静園を避け、沖縄愛楽園に入所されるのは普通であった。他の園の優れた医療をうけるため、一時移動する、というのは普通であった。そのために大きな療養所には医療センターが設けられた。透析のため、外科手術のため、形成外科的手術のため、眼科手術のため、ほかにありとあらゆる医療のためである。

    文化的にも種々さまざまで、園内の雑誌を中心に文芸が盛んな療養所、芸能が盛んな療養所、運動が盛んな療養所、園芸が盛んな療養所などがある。文芸に関しては全国レベルで活躍する人もいる。

    対社会的にも、いろいろ異なり、とくにらい予防法が廃止になってから、急に社会との交流も増えたが、療養所ごとに交流の程度、やり方など異なっていた。例えば宮古南静園では、以前からゲートボールチームは社会と交流していたが、沖縄愛楽園では、それが大幅に遅れた。文化的にも地域性があり、沖縄愛楽園では、琉歌も作られていた。文化サークルの指導者は有名な方々もおられ、園外から求められていた。昔から囲碁将棋の強い方がおられ、囲碁将棋のサークルは各園とも熱心であった。カラオケクラブも盛んである[18]。 療養所の行く末に関する議論が盛んであるが、入所者は、いろいろある療養所の合併に異常に危惧の念をもっている。療養所間の合併も手段の一つと考えられるが、沖縄愛楽園と宮古南静園では、上記説明の通り歴史・雰囲気・文化・言葉が違うので入所者の方は戸惑いを感じている人も多い。

    [編集] ハンセン病療養所における慰安と文化

    公立療養所では、開所当時から慰安の必要を感じていたが、設備も予算もなく、自然男は女の部屋に遊びに行くか、賭博、飲酒などで無聊を慰めていた。外島保養院では、いち早く図書クラブ、演劇団、碁将棋会、幼年者の教育を開始した。九州療養所では、開所当年、盆踊りを開始した。後に患者が作った「恵楓音頭」は現在でも盆踊りのクライマックスで踊られる。外島保養院、長島愛生園、大島青松園の野球などによる交流も始まった。野球、庭球、卓球などをはじめ、演劇、音楽、文芸、書道、絵画、園芸などを色々な団体、不自由者会、盲人会、青年会、婦人会などが主催した。維持費は、会費と自治会の補助、篤志家からの寄付により賄われていたが、後に厚生省(公費)からの援助もあった。カラオケ流行後は、療養所の個人の部屋にカラオケが出来るようにしたり、クラブや寮単位でカラオケが盛んになった。各園による交流にもカラオケがよく使われていた[19]

    [編集] ハンセン病療養所と性

    回春病院というキリスト教系の病院では結婚は禁じていたが、日本の公立療養所では長く入所させるには結婚は可能ということにした。光田健輔は最初は生まれた子供を養育してくれる人を探し自費で養育させていたが、制度として産ませないという結論に達した。そのため、断種と優生政策が行われたが、そのことについては、前に述べた。悲喜劇が多くあった。最初は男女別の大部屋しかないのだが、女性の大部屋に男性が通ういわゆる通い婚が行われた。そのため、医師はここには往診しなかった。人権蹂躙も甚だしいことである。また、夫婦の為の部屋が戦後菊池恵楓園に出来たときは、夫婦はたいそう喜び、壁がかわかないのに入所したと書かれている[20]

    [編集] ハンセン病療養所と宗教

    ハンセン病療養所では、宗教を大いに活用しており、入所者の心の支えとなった。九州療養所では創建直後、本妙寺の僧侶を招いた。患者たちは喜んだが、すぐ来なくなった。別の宗派の僧侶が法話にきて、患者たちは喜んだとある[21]。 宮古南静園の初代園長家坂幸三郎は、自らキリスト教の話をし、現在でもその流れの教会がある(キリストの教会)。次代の園長は、西本願寺から僧侶派遣を受けた[22]。 仏教、キリスト教、宗派神道など、療養所では大いに信仰された。ただ、土地柄であるが、仏教は奄美、沖縄では根付いていない。(終戦直後であるが仏教はその地に3名の統計有り)昭和54年ころの菊池恵楓園の統計を示す[23]

    • 真宗(報恩会) - 757
    • 真言宗(真愛会) - 85
    • 日蓮宗(報国会) - 89
    • 天理教(同友会) - 11
    • 金光教(求心会) - 9
    • 日蓮正宗(創価学会) - 51
    • カトリック(暁星会) - 124
    • キリスト(黎明教会) - 95
    • 仏立宗 - 1

    [編集] ハンセン病療養所における葬儀

    苦難の過去を共有した患者同志の連帯は強固であった。それゆえ、葬儀は重要なセレモニーである。患者自身が作った菊池恵楓園の盆踊り歌に ”ともに去年は踊った友も 今年や御魂のその数に入る それを思えば踊らにゃすまぬ あすの無常はわた身にかかる”というのがある[24]。基本的には、宗教儀式としての葬儀、土地の習慣としての葬儀でもあるが、家族の希望などで、やや異なることもある。セレモニーとしての葬儀の前などに、施設側の挨拶、自治会長などの挨拶、医師としての説明があるところもある。通夜の翌朝、職員などとのお別れの儀式があるところもある。家族の墓へ納骨を拒否される場合は、施設の納骨堂へ納骨する。火葬は以前は園内で行ったが現在は園外でおこなわれる。宮古南静園では、戦争時は、土葬であり後で洗骨が行なわれた。その後園内での火葬となったが、宮古島では一時的にそこにしかなかったので、他から遺体が運ばれた。葬儀は重要な行事で、この日は別の予定された行事を中止することもある。療養所の福祉課や福祉係がお世話をする。年に一度は、全体の慰霊の日(仏教系では施餓鬼という所もある)がある。水子の霊も祭られるところもある。

    [編集] 給与金制度

    ハンセン病療養所における、政府から患者に与えられるお金である。元々、1947年、新薬プロミン臨床実験開始の時に作業賞与金の予算化から始まった:予算の保健衛生対策費の中に登場するのは1968年から。1948年慰安金支給開始。1970年給与金制度成立。給与金は生保の枠内でとある。昭和48年、狂乱物価高で物価にスライドという言葉がある[25]。らい予防法廃止前には、身体障害者1級に相当する額が与えられていた。しかし他の収入があれば、減額したり、しなかったりで、制度自体複雑であった。現在もこの名前が使われている。 なお給与金制度ではないが、療養所によっては、収入の少ない入所者にお金を与える制度は自治会主体とか、代用紙幣と通帳を併用し、貧困者への小遣いなど与えるという制度があった。これは主旨から言って、給与金とは言わない。

    [編集] ハンセン病療養所と教育

    開所当時は、患児に寺子屋式の教育を行うのが普通で、先生は教育を受けた患者が行った。全生園には2名の訓導がおられ、教育された。倶会一処[26]宮古南静園では女学校の校長先生を勤めた人が入所され、教育された。宮古南静園五十周年記念誌,[27]設備も劣悪であった。小学校が始まったのは、園によって異なる。九州療養所の檜小学校は昭和6年開校である。小鹿島では、皇民化のためもあり、患者学校が昭和10年年報に報告されている。滝尾英二[28]戦後は学校令に基づき、小学校、中学校の分校ができた。菊池恵楓園の場合昭和24年である[29]。 最終的には患児がいなくなって、廃校となった。先生方は白衣をきて、差別的な教育をしたと批判されるが、生徒もよくなついたとある。昭和30年に邑久高等学校新良田教室ができ、各園から希望者が受験した。369名が入学、307名(83%)が卒業、225名(73%)が社会復帰した。大学進学者は24名(8%)であった。29期で廃校。なお統計は昭和61年現在である[30]

    これとは別に、発病していない患者の子供はいわゆる未感染児童といわれ、保育所に収容された。そしてその教育が問題となった。九州療養所の保育園は、政府により取りつぶした回春病院の跡地を龍田寮と名づけ、そこに移動した。状況が劣悪なため、一般の小中学校に入校しようしたが、PTAの反対に遭い、トラブルを生じた。龍田寮事件とか黒髪校事件という。教育を受けられなかったことは、入所者に大きい影を投げかけていた。そのため、らい予防法後に、60歳になって宮古南静園の親里廣は定時制高校に入学、卒業した[31]

    [編集] ハンセン病療養所の雑誌

    日本のハンセン病療養所の雑誌には、療養所が発行しているものと、自治会や、また患者団体が発行しているが、だいたい入所者の投稿が主で、それに療養所の幹部、勤務者、外部の方の投稿によりなっている。もちろん編集部が編集するのであるが、入所者が文学作品、エッセイなどを書くことは、生きがいを与えているといっていいだろう。しかし、ハンセン病の歴史という面から考えると、重要な資料が入っている。例えば「愛生」の開園60周年記年号には各療養所から発行している雑誌に掲載された資料が多数整理されており、文献数は数えられない。その部分だけでも実に46ページに及ぶ。シリーズで書かれている著者も多い。

    • らいの医学(らいそのもの、らい周辺、一般医学)例:土佐への旅(小川正子)鳥取旅行(神宮良一)浮浪らいのお宿はどこ(光田健輔),通俗講話 らいの常識(桜井方策),研究室から(原田禹雄),たて書きで読んだらい(原田禹雄),40年の昔を回顧する(光田健輔),らいの社会的スチグマ(鶴崎澄則),日本らい史(山本俊一),その他多数。
    • らいの施設史 日本の国立療養所はすべてある。慰廃園、起廃病院、府県立らい療養所国立移管経過史(野島泰治)
    • らいに関わった人々 日本人89名 外国39名に関して多くは複数からの投稿がある。
    • 世界のらい (アジア 14に国別にわけて、その他5つに分けて世界のらい)
    • らい予防法(日本のらい予防法、諸外国のらい予防法)
    • 会議
    • 雑(保育所児童に関わった資料、事件と呼ばれたものに関する資料,長島事件,竜田寮事件,藤本松夫事件,その他らいの歴史等々)[32]

    [編集] ハンセン病療養所と刑務所

    1947年8月、日本共産党は患者にも参政権が認められたので、栗生楽泉園を訪れた。そこに懲戒検束規定に基づく重監房を見た。22人が獄死していた。国会で論議となったが、責任者は責任はとらせられなかった。悪質な患者の処分に困窮した療養所は刑務所を作れと要求、また厚生省は代用監獄案があった。栗生で韓国朝鮮系の人々による3人が殺された事件がおこり、刑務所の必要性が認められた。職員側も入所者もその構想を肯定している。藤本事件が発生、菊池に作れということになった。昭和28年に法務省管轄下の菊池医療刑務支所ができた[33]。入所者は、出所した患者を療養所に受け入れず、そのことは、色々問題を残した。昭和57年に恵楓園の近くに最新の建物を作ったが、らい予防法廃止時、機能が廃止された。なお、栗生の重監房は、再建しようという運動がある。

    [編集] ハンセン病療養所における不自由者への工夫

    盲導鈴 ハンセン病療養所で親しまれた単語。盲導鈴は失明した人を導く音がでる機械。一定の場所に設置。色々な機械が工夫された。前に立つと場所をいう機械とか、メロデイがでる場合もある。メロデイの場合は一つおきに、民謡と童謡が交互にあったりする。(菊池恵楓園)ラジオ放送が出てくる場合もある。失明した人はこれを指標に歩くわけである。 盲導線 寮などの廊下に設置される失明した人を導く線。低い天井に設置し、それを伝わって歩くのが普通。盲導索ともいう。

    [編集] 日本のハンセン病政策に関わった人物

    高松宮宣仁親王
    高松宮宣仁親王(1905年-1987年)は、大正天皇の第3皇子(昭和天皇の弟)。藤野豊はGHQのクロフォードサムス准将が天皇家の代表として高松宮を福祉関係に活用したという証言を引用している。高松宮は1947年楽泉園を訪れた際に消毒服に着替えず、背広のままで園内を見学し、準備したコースを無視して病室に入り、入所者と直接話したり、重監房の中にも立ち入り、園当局をあわてさせている。後年はもっと園の指示するコースを歩んだ。藤楓協会の初代総裁となり、全国の療養所を回った[34]
    増田勇
    増田勇はハンセン病先覚者である。東京済生学舎卒業。青森県で開業したが、自力でハンセン病治療法を研究した。ある程度成績がでたので、医学会に患者同席で発表した。明治39年に、横浜の乞食谷戸の近くに転居、らいを研究した。明治40年のらい予防法に反発、批判の書「らい病と社会問題」を書くも、政府の反発を買い、現在国立国会図書館に1冊しか残っていない。なお、ハンセン病資料館にコピー本がある。らいは怖い病気でもなんでもなく、研究すれば治癒する病気であると考えていた。その後、浅草に病院を移し、花柳病専門医となった。患者の写真を撮影し、リデルに贈った記録も残っている。東京大空襲で死亡した[35]
    小笠原登
    小笠原登はハンセン病先覚者である。京都大学卒業。京都大学医学部皮膚科特別研究施設助教授であった。お寺の出身で、そこでも癩を見ていたが感染することはなかったという。らい体質病説を昭和5年頃から唱えた。らいを大学外来で治療し、隔離主義に反対した。昭和16年12月、らいは恐るべき伝染病で、根こそぎ隔離すべきであるとする付和雷同の学会員から異端の説として袋だたきにあった。彼の当時くる病体質と関係あるだろうと考えていた。その後奄美和光園で漢方を研究した。
    周防正季
    周防正季は明治18年(1885)滋賀県生まれ。愛知県立医学専門学校卒業。県立岡崎病院、内務省防疫官補を経て開業した。のち韓国にわたり、警察部衛生課長になり、麻薬中毒撲滅に没頭。京城大学でモルフィネの研究で博士号を取得した。昭和8年小鹿島慈恵医院院長に就任した。昭和14年には収容人数6000名の大療養所(小鹿島更生園)を完成した。昭和15年、日本癩学会総会を主催した。入所者に対する日本の習慣の押し付け(神社参拝)、患者待遇の悪化、食料の欠乏、日本の植民地支配への反感などがあり、昭和17年6月20日、患者から刺殺された。勅任官刺殺事件として注目を浴びた。勲三等に叙勲され、皇太后陛下より祭祀料が下賜された[36]
    貞明皇后
    貞明皇后は救癩事業に尽くしたことで有名である。内務大臣安達謙蔵は貞明皇后に救癩事業への援助を願い出て、昭和5年11月10日、御手元金24万8000円が下賜された。これが最初というわけでなく、皇后はハンナ・リデルの回春病院にもしばしば多額の寄付を行っており、1916年には年6000円、それ以降毎年3000円の寄付をおこなっている[37]。「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆきことかたきわれにかはりて」という皇后の歌が彫られた石碑をもつ歌碑公園が全国の療養所に作られた(除九州療養所:ただし屏風がある。)この歌は最近まで、式で歌われたこともある。
    犀川一夫
    犀川一夫は1944年―60年国立療養所長島愛生園勤務。プロミンを使った最初の医師達の一人であった。隔離主義に関し、恩師光田健輔に反抗し、1960年―64年台湾麻瘋協会に勤務。1964年―70年WHO西太平洋地区らい専門官、1970―72年琉球政府らい専門官及沖縄愛楽園長。1972年―87年国立療養所沖縄愛楽園長。復帰に伴って患者の強制隔離を定めたらい予防法が適用されるのに反対し、沖縄だけは在宅治療を続けることを国に認めさせた。01年患者側が全面勝訴したハンセン病国賠訴訟で、元患者側の証人として出廷し、国の政策を批判する証言をした。博覧強記であり、自分が行った断種手術もオープンにされ、人と接するときは百年の知己のように話された。
    大谷藤郎
    大谷藤郎 大正13年滋賀県に生まれた。昭和27年京都大学医学部卒業、昭和34年 厚生省に入り、厚生大臣官房審議官、公衆衛生局長、医務局長を歴任。その間、ハンセン病や精神障害者などの人権回復に尽力。退官後も精神障害者の地域社会復帰運動など、疾病障害差別の人権運動にかかわる。特にらい予防法の廃止運動に先鞭をつけ、流れを加速したことに功績がある。先輩小笠原登を詳しく紹介した。平成5年レオン・ベルナール賞を受賞。「現代のスティグマ」「らい予防法廃止の歴史」など、著書多数。現在、大学学長。ハンセン病資料館館名誉館長。

    [編集] 日本のハンセン病患者救済に尽力した人物

    後藤昌文・後藤昌直父子
    後藤昌文後藤昌直の項を参照。
    後藤昌直は明治時代のハンセン病治療医。初代後藤昌文の長男であり、二代目後藤昌文とも称される。父に師事しハンセン病患者の治療に一生を尽くした。
    隔離政策が主であったハンセン病を、外来・通院治療で治癒に導いたこと、難病自療などの著作・講演でわかりやすく患者向けに啓蒙活動を行い治癒する病気であることを説いたこと、また明治時代にハワイ政府に招聘されダミアン神父を初めとする海外患者の治療を行い高い評価を得ていたこと、全国の門下生に指導を行い全国各地に治療院を開設したこと、貧しい患者に無料で治療を行っていたことなど、日本のハンセン病歴史上特筆すべき存在であった。
    ハンナ・リデル
    ハンナ・リデルは、1855年、ロンドン郊外バーネットに生まれた。両親に連れ子がある複雑な家庭で、父親は以前外国にも出かけていた兵士である。経済的にも苦労し、母親とともに一般教養や色々の資格を与える各種学校を南ウエールズで経営したが、行き詰まり破産した。生活を立て直そうと教会(CMS)に入り、両親の死後、35歳時日本に伝導にいく。1891年に本妙寺にいきハンセン病患者をみてショックを受ける。その年の12月教会本部に手紙を書いた。彼女は新しい組織をつくることに興味があり、権力のある人に近づくという本能があった。教会によりハンセン病病院を作ろうと、力量を発揮した。当然組織のトップと交渉するので、中間管理職のブランドラム師は、板ばさみとなり、精神異常を起こして、はては死んでしまった。リデルは教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院を経営せざるを得なかった。衣装も着飾り、上京すれば帝国ホテルに宿泊し、夏は軽井沢で避暑をする。いろいろ贅沢をするが、寄付を頂く作戦と主張し意見を変えない。そのせいか驚くべく多数の全世界の金持ちから寄付を戴いている。日本においては、実業家、政治家、はては皇族も会えるようになる。沖縄の患者への助力を考え青木恵哉を派遣した。またらい研究所を作ったが、これは日本初である。外国人は土地を所有できなかったが、当時の法律に基づいて999年間借りるという賢明さがあった。彼女の経済生活はまだ解明されたとは言えない[38]
    岡村平兵衛
    プロミン以前の治癩薬大風子油は泉州堺の岡村製薬所のものが品質が優れ、従って広く用いられた。1852年生まれ。明治21年、行き倒れ癩患者を救い、自宅で救済した人は千数百人に達した。大風子油の製造を開始、時期ははっきりしないが、明治25年1月の中外医事新報に広告を発見したので、その頃であろう。明治34年自宅での救済は中止した。昭和19年、原料の輸入がとまり、プロミンが使われるようになって大風子時代は終了した。身長188センチ、素人相撲の大関を張り、剣は免許皆伝で、堺では有名人であった。1934年没。享年82[39]
    小川正子
    小川正子(1902-1943)は協義離婚後(相手は後に衆議院議長、大臣になる)東京女子医学専門学校入学。卒業間際に光田健輔の全生病院に就職を希望、定員がなく断られた。1932年、長島愛生園医務嘱託、33年医官発令。在宅患者の収容にいく。1937年結核発病。38年「小島の春、ある女医の手記」を出版。41年退職。43年永眠。1991年、小川正子記念館開館。当時の在宅患者の悲惨な状況、周辺の人々や収容の状況、筆者の思いなどよく描けている優れた記録文学である。映画化で、無らい県運動を促進したという批判はあるが、当時はプロミンもなく、入所者を十分受け止めなかったのは彼女のせいではない[40]
    ハンセン病医療に携わった女医
    らい医療にたずさわった女医の記録がある。古くは服部ケサ、田中逸野、西原ツボミ、松田なみ、小川正子、神谷美恵子、小原安喜子を含め33名の記録である。多くは東京女子医大かその前身の卒業生である。松田なみは、郷里八代に近い九州療養所に勤務したが、誘われるまま、辞表を出して沖縄愛楽園に転勤した。その療養所では男性は殆ど応召してしまっていた。三上婦長を中心に7名の白衣の天使群はまるで戦場における7名の武士のように勇敢に最後まで踏み止まって職務を遂行した。白兵戦もあった戦い、戦後のことも記載がある。現在でも女医は重要な任務についているが、戦争時は男性がいなかったため貴重であった。松田なみは当時医局長[41]
    奄美のゼローム神父(1922-2003)
    ゼローム神父またはジェローム神父。Father Jerome Lukaszewski.アメリカコネチカット州ニューヘヴンで生まれる。ポーランド系アメリカ人。1954年ハンセン病未感染乳児施設「子供の家」、引き続き、1959年「名瀬天使園」を設立。奄美ではハンセン病入園者も子供を産むことができた。「南日本文化賞」を受賞。らい予防法廃止時、感謝の集いが世話を受けた人ともども開かれた[42]
    コンウォール・リー(1857-1941)
    イギリスのカンタベリー市で、インド駐屯軍・陸軍大佐の長女としれ生まれ、聖アンドリウス大学で教育学、経済学、言語学、英文学を専攻した。母の死後、相続した財産と自己の余生を人類の奉仕に役立てようと、日本を選び、明治41年、51歳で日本聖公会の宣教師として来日、リデルや慰廃園のハンセン病救済活動を見学、草津に赴き湯之沢で聖バルバナ医院をはじめ、18ホーム、1教会、1小学校、1保育園を開設し、患者とその子弟の救済、とくに養育に尽くした。昭和16年84歳で永眠。[43]

    [編集] ハンセン病問題に関連した機関

    [編集] 藤楓協会

    藤楓協会は、救癩運動のシンボルとなった貞明皇后が昭和26年に死去するが、高松宮を総裁に戴き設立されたものである。藤は貞明皇后のお印、楓は昭憲皇太后のお印「わかば」からきている。高松宮は福祉の宮として、自覚され積極的に活動された。宮が亡くなってから、高松宮妃寬仁親王がその役割を果たされた。高松宮は、適当な時期にきたら辞めるべきであるという言葉を残されたが、平成15年3月31日、藤楓協会は解散し、翌日、ふれあい協会ができた。藤楓協会は皇室の「ご仁慈」を強調したが、国策、隔離政策の隠蔽に力を貸したという批判がある[44]。 当時の時代の精神もあるが、政府の予算などに縛られず、ある程度便宜をはかる機関ではあった。

    [編集] ハンセン病問題検証会議

    ハンセン病問題検証会議は、熊本地裁判決を受け国が「ハンセン病政策の歴史と実態について、科学的、歴史的に多方面から検証を行い、再発防止の提言を行う」ことを目的として作られた検証会議である。設置したのは2002年10月のことであった。実地に各園を回り、証言を聞き、検討した結果は膨大な報告書及び「検証会議」(光陽出版社、2005)その他にまとめて発表されている。新たに胎児標本の報告書も出た。

    [編集] ハンセン病市民学会

    ハンセン病市民学会は、「ハンセン病問題に関する検証会議」がやり残した課題もあり、熊本地裁判決を風化させないよう、2005年に作られた市民の学会である。交流と検証と提言が活動の3本柱である。一部の学者に任せることなく、回復者も市民もいっしょになってさまざまな課題に取り組んでいこうという趣旨である。集会と年報発行がある。インターネットを通じ情報提供を積極的に行っている。

    [編集] 日本のハンセン病医療に関連したその他の制度

    [編集] らい指定医制度

    昭和28年のらい予防法で設けられた制度。経験3年以上の医師を県知事が指定し、ハンセン病の診断、患者の収容その他、県知事の指示で業務を行った。主に療養所の医師が指定されたが、大学教授などが指定された場合もある。県の担当者と共に行動し、特に秘密を守り、在宅治療も行い、経済的に困窮する家族の救済にも関与した。ある大学の場合は、県の担当官が大学に患者を連れてきて、診断治療などを行なった。らい予防法廃止とともにこの制度はなくなった。らい予防法がなくなり、県知事が謝罪したのは、この制度のためである。家族への援護は、生活保護に移行したが、守秘に関して問題を残した[45]

    [編集] 日本のハンセン病問題に関連した文学

    次の特質がある。1)ハンセン病の世界を異界とみる。2)ハンセン病文学全集の場合は、療養所に入った患者の作品のみである。患者も、療養所に入っていない場合は全集に入らない。3)日本ハンセン病文学全集の編者、加賀乙彦によると、暗いものを予想していたが、そういうのもあるが、悲惨な状況においても、ユーモアがある、社会の人への思いが表れている、書かれた時代がとても大事である、という感想を漏らしている。また、ハンセン病文学は療養所内の人の文学に限定したがよい、という意見をもっている。4)「生き甲斐」を求める場合が多い。亡くなったら側に膨大な文章が遺された、という場合もある。5)作者名が一定せず、よくわからなかったりする。6)ラフカデイオハーン、小川正子など、患者以外の方が書かれる場合もある。7)各園の雑誌に発表することは、一つの重要な柱であろう。しかし、個人で出版される方も多い。8)ハンセン病患者以外の専門家が力づけ助ける場合もある[46]

    [編集] 北条民雄

    (1914-1937)働く傍ら各種学校に通い、苦労した。同人誌なども手がけた。昭和9年21歳で全生病院に入院。絶望、不安、孤独の中で文学の世界で活路を見出す。川端康成に手紙を送り真価を認められた。「間木老人」、「いのちの初夜」、「らい院受胎」など小説、随筆を発表、文壇に確固たる地位を占めた。「いのちの初夜」は第2回文学界賞をうけた。24歳で永眠。

    [編集] 日本のハンセン病問題に関連した研究

    [編集] 濫救惰眠論

    邑久光明園職員の森幹郎が「新しき時代の新しき療養所」と題し「楓」の1956年9月号に発表した論文である。1)らい予防法には退所の規定がないが、らいを感染させない入所者をそのまま入所されるのは行政の濫救である。2)行政の濫救は入所者を惰眠にする、3)行政の濫救と入所者の惰眠を解決するには 療養所を再編成して1)病院2)中間施設(コロニー)、身体障害者施設、養老院にする。この意見は1950年代の後半に、全国の療養所の論壇を賑ぎあわせた。反対派は感情的になり、惰眠を惰民と書き語るに落ちた、と森は書いている。「全患協運動史」でも取り上げているが、真剣な検討にはなっていなかったようだ。森はその後、厚生省や大学に転じた[47]

    [編集] らい感染説

    日本らい史の最初に日本人がらい感染を最初に言い出したという記録がある。勅命により天長10年(833)、清原夏野ら12人によって編まれた「令義解」に、「悪疾所謂白癩、此病有虫食五臓。或眉睫堕落或鼻柱崩壊、或語声嘶変或支節